文芸船

ロリヰタ・リアリズム

 僕たちはしばしば常識という言葉を気軽に口にするけれど、これほど曖昧で正体不明の危うい言葉はないと思う。ちょっと他の職場にいる友達と話してみればわかる話で、一般常識と名のつくものは会社や職種によりかなりばらついていて、さらに転職したりすると社会常識を身に付けたつもりで偉そうにしていたそれが実は単なる会社常識であったり業界常識であったりして戸惑うわけだ。そんなわけで少し、その常識の枠から外れて見える服装や人物群の話をしたいと思う。とりあえず君や僕の常識と一致するか否かは別にして、ゆっくりと紅茶でも飲んで読んで欲しいのだ。

 ところで僕は今、紅茶でも飲んで、とあっさり言ったけれど、日本人の場合はあまり言わない言い回しだと思う。紅茶はかなり普及してはいるけれど、ペットボトルの商品点数は緑茶に負けているし、喫茶店は茶と言いながら珈琲が中心だからだ。でも僕がこれから触れようとしている人たちはたぶん珈琲より紅茶を好む人たちだと思う。

 数年前、マスコミが言うところの某大手匿名掲示板こと2ちゃんねるで、ある大物政治家が「Rozen Maiden」という漫画を読んでいたと話題になった。この漫画は引きこもりで通販のクーリングオフが趣味の中学生・ジュン宛てに、紅いロココ調のドレスをまとった金髪のアンティークドールが送られてくる場面から話が始まる。このアンティークドールが会話したり紅茶を飲んだりお菓子を食べたり、他のアンティークドールと戦ったりと展開していく。登場するアンティークドールたちは皆ロココ調のドレスを纏っており、中でも数体は退廃の入り混じった、いわゆるゴシック・アンド・ロリータなドレスを身につけた人形たちだ。この概略を読んだだけでもわかるとおり、ファンタジーにしてもかなり現実離れの大きい作品なのだけれど、その一方でこの作品は「主人公が引きこもりで登校や将来について悩んでいる」という、やたらと社会的に生々しい部分が常に物語の柱として働いているのだ。

 さて、ここで急に話が変わるのだけれど、この漫画を原作としたアニメの主題歌を歌っていた音楽ユニットを紹介したいと思う。男女二人組でALI PROJECTという。この女性ボーカルがまた色々と変わった舞台衣装を着る人なのだけれど、とくにゴシックな服を着ることも多い人で歌詞の中身もまた暗黒の幻想をたゆたうような曲がとても多いバンドだ。このように、現代では普通なら人形にしか着せないような服を身につけて歌う歌手が現実にいるわけだけど、それどころかロリータまたはゴシック・アンド・ロリータで着飾る少女たちが現実に存在しているわけだ。

 そんな少女たちを描き、また普及した作家が嶽本野ばらだ。その著作の中でも「下妻物語」は2004年に深田恭子が主演した映画で一躍有名になった作品だ。嶽本野ばらは憂鬱な生きにくさの中での孤高を描く作品が多いのだけれど、最も有名なこの作品はコミカルなつくりになっている。だが注意して読むと、主人公の桃子はヤクザくずれでバッタもの販売の父のせいで田舎に連れてこられており、学校の中では転校前から浮いた存在だ。引っ越し前も大阪という庶民性を誇る街だし、舞台の下妻は農村の田舎とくる。そんな地味な舞台を背景に珍奇にすら見える「お洋服」を纏った「ロリータな生き方」を目標とする少女と、これまた珍奇とも時代遅れともとられる暴走族の少女との友情物語という筋立てになっている。つまり、荒唐無稽な筋立てとコメディ風の描写の足下には生々しく地味で現実的な世界が横たわっているわけだ。この辺の機微は映画よりも原作を読んだ方が文体から立ち上る独特の空気感を感じられる。

 ところで最後にもう一作「GOSICK」を紹介したいと思う。直木賞を受賞した桜庭一樹のシリーズ作品で、出版点数でいけばいわゆる一般文芸書よりもライトノベルであるこちらの方が代表作かもしれない。GOSICKは第二次大戦前、欧州の架空の小国ソヴュール王国を舞台に、日本からの15歳の生真面目な留学生、久城一弥と彼の通う学校に所属している天才の金髪少女、ヴィクトリカの冒険推理物だ。ヴィクトリカは優れた美貌の華奢な少女なのに老女のようなしわがれた声で、いつも豪奢なドレスを着ており甘いお菓子が大好きだ。物語全体では、事件を推理する上で久城が何も気づかないことを嘲ったりわがままを言ったりする場面が多く見られる。主人公の久城もよくヴィクトリカの高慢について愚痴を内心こぼしているし他の登場人物たちからは天才性を恐れられるか、その気性ゆえ疎まれるばかりだ。

 だが、ヴィクトリカは天才の血筋のおかげで学校の敷地内に軟禁に近い状態で管理されており、時折行方不明の母に会えない寂しさを独りで嘆く。彼女にとって友人と言えるのは久城だけで、常に最後には久城だけを信頼して動くことになる。最終巻以外はいずれの巻でもヴィクトリカは学園外に出たとしても久城とともに元の学園へ帰る場面で話を終えている。普通の作品なら当然の話なのだが、この作品ではヴィクトリカは軟禁に近いのだ。様々な事情が語られるとはいえ、脱走という選択肢はとらず元の学園、言いかえれば牢に戻ろうとするのだ。

 翻ってみれば、Rozen Maidenの最終巻では主人公のジュンが登校を再開しようとする矢先に仲良くなったアンティークドール達が倒され、彼が人形たちの場へと戻る場面で物語は終了する。下妻物語の桃子はヤンキーのイチゴを助けるためにバイクを投げ付けるという荒業まで行ってロココなロリータとは相容れない啖呵を切った癖に、自分は大人にならない少女のままのロリータなのだと締めくくる。これらの作品はいずれも、現実に対する向き合い方が一般的な作品とは趣を異にしている。彼女たちは最終的には常識的な道へは進まない。単純に前向きに現実世界と向き合って進んだりせず、むしろ生き方に妥協を迫る現実側を拒否する。いわゆる世間の常識や良識は彼女たちのそれと一致していないのだ。

 現代文学は現実を忠実に描くことを重視しているけれど、そこに描かれた現実は本当に現実なのだろうか。僕たちの生きている現実、見つめろと若者が年配者に言われる現実は本当に現実なのか常識を疑ってみたいと思う。僕はいわゆる就職氷河期世代で、就職活動の当時盛んに言われていた言葉に「即戦力」がある。だが就職氷河期の終焉頃になると、新卒で即戦力なんて現実にはありえないという記事が雑誌や新聞にも平然と掲載されるようになった。僕たちが見つめろと言われていた現実は、実は日本社会全体に煙幕のように漂った、無責任な甘えの集団幻想に過ぎなかったわけだ。

 GOSICKの四巻で、君はどこに行くのかと問われたヴィクトリカは「いつもの場所に戻るのだ」と答える。Rozen Maidenの最後も、ジュンが「必ずみんな一緒に戻ってくるから」という台詞とともに扉を開いて旅立つ。そして下妻物語の桃子もまたBABY, THE STARS SHINE BRIGHTに刺繍の技術を認められながらも「純粋な一介のファンであり続けたいな」と言って、憧れの有名ロリータブランドへの入社を否定的に捉えながらヤンキーな親友の背中に安堵する場面で終わる。前向きの方向に疑問符のつくこの3作品の人物たちは、友情や淡い恋心という支えを得た上でより現実を見つめた上で常識や平凡さに背を向け、絶対的な正義にも多少の距離を保ったまま生きようとする。その姿は必ず逃げを含んでいるのだが、彼女たち自身はそのことをも認識している。冷め切った現実を見つめた上で、今はこれしかないのだと友情を支えに歩き続けるのだ。

 一方で僕たちの現実を見つめてみよう。例えば家族を食わせようと必死になっている大人が沢山いるけれど、その家族の生存に論理的な必然性はなく自身と周辺の価値観に過ぎない。個体が幾つか死んだ程度で滅びる生物種は存在しないのだ。さらに言えば、生物のある星は地球以外には発見されておらず宇宙全体から見れば生物がいる非常識で異常な星こそが地球なのだ。生物を絶滅させる方が宇宙全体から見ればまともな状態に戻す行為だと言える。恋人との時間のために必死で詰めた生活をしたり、また職場の付き合いで忍耐したりして世間の様々なしがらみの中であがきながらも現実だと合わせているが、大きな視点で真の現実と向き合うのなら、それは単なる徒労に過ぎないように思える。

 結局は僕たちもロリータの少女たち以上に、常識や近代の理性という名の集団幻想に縋りついているだけの、現実から逃避した集団幻覚患者なのかもしれない。それでもその集団幻覚を愉しめるのならそれも1つの幸福だと思う。だからこそ、その幻想の中でさらに幻想に閉じこもる人たちこそ、より深い世界を抱ける繊細な勇者たちなのだ。

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