文芸船

孤族たちの国

 二十代も後半になり、そろそろ友人の結婚話が増えるかと思っていたのだが、私自身も含めて意外にその気配が少ない。先日、独身寮内での飲み会があった際も、案外二十代後半が多かったものだ。国立社会保障・人口問題研究所によると、2002年の統計で、男性の初婚年齢は29.1歳、女性の初婚年齢は27.4歳になった。また、晩婚化が非婚化へと進む傾向も強まっているという。

 ところで家庭、家族という言葉は幅の広い概念で、夫婦と子供を指す場合や、血縁者を総じて語る場合もあるが、一般的な家族は夫婦が家庭の基礎になることから、夫婦と子のみの家族を中心とする視点は一般に認知されていると思う。新聞記事などで核家族化の話題を見た人も多いだろう。たしかに家族の概念で夫婦が基本になるのは現在の社会構造や法制度上、否定できない。しかし、夫婦が家族の核であるという視点にはどこか浅薄さによる瑕疵があるように思えてならない。

 核家族という言葉は、家族を核と周辺という二つの層に分離する視点がある。だが、果たして家族というものがそもそも層構造の存在だったのだろうか。家族に老人が入ったり独身の叔父や伯母などが加わったとき、それらは周辺の存在でしかなかったのだろうか。その答えは個々の関係を各々見ていけばわかる。夫婦とそれ以外、という単純な構造ではなく、あくまで個々の置かれた相互の立場に立脚する人間関係が成立している。

 話題が変わるが、過去、コンピュータ類の通信は中央に末端がぶら下がる集中型のネットワークだった。しかし現在のインターネットは各々が相互に接続されており、中心は存在しない。近年違法コピーで問題にされているWinnyなどのP2P型のネットワークなどはその典型だと言えるだろう。一方、ネットワーク技術の発達に伴い、企業内、学校内といった小さなローカルネットワークが発達してきている。

 ここで家族をもう一度考えてみれば、元来は単なる相互ネットワークに過ぎなかった家族に、誤って仮想の核を考えていたのではないのか。つまり、現在の晩婚、非婚は核家族の解体などではなく、戦後から継続してきた家族ネットワークの解体という一連の流れに過ぎないように思えるのだ。さらに、地域と個人、国家と国民という関係性の影には、家族の存在があったように思える。

 私は、成人して社会人となった独身者たちを敢えて「孤族」と呼んでみようと思う。新たに独立した関係世界を構築すべきなのにもかかわらず、孤立して存在する、そんな人間像だ。

 一個人として存在しているのだから、「孤」よりも「個」の方が望ましいのではないか、という人もいるだろう。しかしそれは誤りだ。個を確立しているからといって関係世界を構築しなくても良い、という理屈はない。むしろ人間は集団生活によって成立している。関係性により個を常に補完する存在なのだ。

 孤族は家族のような自前の独立したネットワークを持たない。ゆえに学校や企業、国家といった既存の高度に人工的なネットワークとの関係が強化されるように思う。近年、反政府型の運動よりもむしろ、かつては右翼的とされた視点が若者に受け入れられたり、社会と直截的に関係を持てるボランティアに参加する若者が増加していることには、このような背景を感じる。だが、孤族はその独立したネットワークを持たない故に大多数の末端に過ぎない。それは大多数の中の孤独である。都市の孤独を最大に拡張した、世界の中の孤独なのである。その孤独を抱いた孤族はさらに既存のネットワークとの強固な接続か、または完全な切断を求める。だが、それは大多数の末端の一部に過ぎない彼らには得られるはずもないであろう。

 孤族はこれからも群集化しつつ増加していくだろう。そしてそれは社会の構造を大きく変えていくかもしれない。だが、それは今までになかった異形の世界であろう。

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