文芸船

近似された世界

 最近のパソコンやAV機器を見ていると、あらゆるものがデジタル化の流れにあるようだ。総務省の計画によると、2011年までに地上波テレビ放送(一般のテレビ放送)も全てデジタル放送に切り替える計画だ。デジタル化による様々な恩恵や、逆に短所は今でも色々語られているが、音楽CD、パソコン、テレビ映像、携帯電話、そしてストーブの温度制御に至るまで広範に適用されている「デジタル」そのものについては、これまであまり説明されずにきているように思う。digital(デジタル)の日本語訳である計数型という言葉自体、むしろデジタルより耳慣れないほどだ。

 ここ近年言われているデジタル化は、まず最初に世界を数値で認識することから始まる。音楽、つまり音は音波として認識できるし、画像も色の集合、つまり光の波として認識できる。気温については普段から摂氏温度で表現しているのだからわかりやすいだろう。だが前述のように世界を数値で捉え始めると、この世界で起きている多くの現象は「1、2、3」といった単純な飛び飛びの数字ではなく、音波や光波といった波動のように次第に移り変わっているという事実に気づく。このため、単純に数字で世界を記述する企みは困難になってしまう。

 ところが、デジタル化では前述の問題を割り切って考えてしまう。先ほどの次第に移り変わっている値を、適当な幅で区切って値を抽出してくるのだ。そうやって得られた値を再びつなぎ直せば、元と近似の世界を描けるわけだ。乱暴な例えだが、百角形は円に見えるということだ。つまりデジタルで構成された世界とは、離散した数値から再構成された近似値の世界と言える。こう書くと一見、既存のアナログの方が良く見えると思うかもしれない。実際、究極の点ではアナログの方が良くなるはずである。しかし現実の技術では、機械上のアナログ表現は電圧・電流の類で表現する形になる。これらは多くの物理的な要因から容易に影響を受けやすく、結果として表現された内容が劣化してしまうわけだ。このため、いったん明確に数値に置き換えて再構成するデジタルの方が、結局は世界をより正確に再現できるわけだ。

 デジタルは世界を細かく刻んでその態様を理解する方法なのだが、この「刻む」という行為を注視してみると、我々は古来からデジタル化の道を歩き続けてきたように私には思える。なぜなら、私たちが日常的に用いている言語は、世界を刻み区分する作用を本質的に内包しているからだ。

 私たちは世の中の物同士、もしくは事象間を区別するとき、その各々に名前をつける。この名付けという行為によってその各々が違うことを再認識する。我々人類は、このように名付けすることで世界を分断し、その態様を理解してきたわけだ。極論すれば、私たちが住んでいると考えている世界は、私たちが自分の内側で言語によって再構成した、近似の世界であると言えよう。

 流行に乗る言葉がある。また、死語となってしまう言葉がある。こういった言葉の栄枯は私たちの世界そのものを作り変える。私たちは毎日、作り変えられた世界を渡り続けているのだ。それほどまでに揺れ続ける世界にどれほどの精密さがあるのだろうか。言語にその認識を拠って立つ我々は「近似の世界」の住人に過ぎない。

 コンピュータの中で動いているソフトウェアは、C言語やJava言語というコンピュータ専用の言語で書かれたものだ。さらにWebサイトの製作で用いるHTMLも、マークアップ言語という本来は文章の論理構造を明確にするための言語だ。コンピュータの発達は言葉による対話や認識を喪失させるような印象があるが、むしろ逆に、世界の認識を言語単独の論理世界に収斂させる作用を持っているように思えてならない。現在のコンピュータはOSを初めとして一見、映像や音声ばかりになっているが、その全ては言語によって制御されているのだ。それは、言語による表現世界の独裁とすら思える現象だ。

 デジタル技術の発達に伴い、恩恵と欠点が同時に発生している。とくにその問題点を指摘するとき、仮想と現実の区別についてしばしば話題にされる。しかし前述のように「近似の世界」にしか住みえない我々を基点に考えれば、そのデジタル技術と論理的な言語によって再構成された仮想世界の方がむしろ、劣化の危険性を含んだアナログと曖昧な感性に頼った認識世界よりも、現実を正確に近似している可能性すらある。これから始まるデジタルの仮想世界とは、人類がこれまで無意識に逃れ続けてきた現実に対して、より精密に近似された世界へ至る道程なのかもしれない。

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