文芸船

Geniusと碩学

 Apple Inc.が開発して無料配布しているiTunesはパソコン上の音楽管理用ソフトウエアとして、またオンラインコンテンツ購入ブラウザーとして、さらに同社が製造・販売しているDAPであるiPodへの音楽データ転送用ソフトウエアとして高いシェアを有している。2001年に発表されて以来、その特徴ある操作性や計算されたマーケット戦略で様々な評価を受けてきたソフトウエアで、これまでほぼ毎年のペースでメジャーバージョンアップを繰り返してきた。

 2008年に発表されたiTunes8には新たに「Genius」が搭載された。この機能の説明を同社のサイト「iTunes8の新機能」から引用すると「曲を聴きながらGeniusボタンをクリックすると、ライブラリにある相性のいい曲を集めたプレイリストをGeniusがその場で作ってくれます。Geniusプレイリストで、ライブラリに埋もれていたお気に入りの曲を再発見しましょう。」とのことだ。これを実現する仕組みは、視聴者がどんな音楽を持っていて、どれだけの頻度で、どんな評価をしていて、といったデータをiTunesが解析サーバーに送信し、それを蓄積したサーバーがデータ解析結果を返送するというものだ。要は膨大な世界中からのデータ蓄積と利用者の音楽視聴傾向からお勧めするわけだ。最近こそかなり頷けるデータが配信されるようになったが、当初の機能はネット上で「Genius(天才)とよく名乗れたものだ」と酷評されるほど無茶苦茶だった。元々この機能は開発元が経営するiTunes Storeで新たな曲に興味を抱かせて買ってもらおうという思惑と、また謳い文句通りの楽しさを与える目的で作られた機能であると思う。ただ、ここでは1つ「視聴者の視聴傾向に合わせた紹介を行う」という特徴を記憶に留めて欲しい。

 ところで皆さんは「碩学」という言葉をご存じだろうか。これは分野の分け隔てなく広い分野を深く追求する学者を示す言葉で、一種の褒め言葉に近い。現代の高度化した時代にそんな広く深く知っている人間など現実的ではない部分はあるが、学求の1つの理想形であろう。実際、各分野が単に分化して深さのみを求めるのであれば、学問は役に立たないし門外漢には本当に何も理解できない世界になってしまう。そんなわけで学者バカとか象牙の塔と言った悪口があるくらいで、一般に天才と言えば普通の人には到達できないほど深い知識のみならず、広い知識や見識を期待するものだ。だからこそノーベル賞の受賞者や大物の芸術家に専門分野以外の内容を訊く人も後を絶たないし、そういった取材報道も多く見られる。

 さて一方Geniusの仕組みに目を向けると、その視聴者の視聴傾向とデータで蓄積された傾向の比較を行っているものと推測されるが、その場合には確かに、近い傾向でそれまでなかった曲との出会いはあるだろう。だが、全く異なる世界との出会いはどうだろうか。この機能はそもそも、人には好みの傾向があること、言い換えれば個人は何らかの偏りがあることを前提とした設計である。つまり、その偏りから離れた曲が推奨されることは当然にまれであろう。これでは深さは生まれても広がりについては難しい。とくに近年はテレビの視聴率が低下し国民誰もが知っているような突出したヒット曲は生まれにくいようになっている。そうなると視聴曲の分野は個人により依存していく可能性がある。

 iTunesは現在音楽以外に映像コンテンツにも商品の範囲を広げており、また購入商品の傾向による紹介で売上を伸ばそうというネット上の試みは出版物を主に取り扱っているAmazonでも実装している機能である。もちろんGeniusという機能を否定する気はないが、実はこの機能は個人への新体験と世界中とのデータ上のつながりを提供しながら、その実は個人をより狭く深い井戸の底へと招いているようにも思えるのだ。歴史を眺めれば、文化の成長と発展は単なる深さのみならず、異文化同士の出会いや既存文化への絶えざる反発と破壊がその発展の萌芽となっている。それは文化の蛸壺化とは全く逆の方向だ。そもそも文化は工学の得意とする最適化とは相容れず、人間の理性よりも感情に基づくものだ。そして文化の閉鎖性、排他性は他の文化への攻撃性を育てる。

 冷戦後の多くの戦争は、もちろん資本の論理や関係各国の独善と欲深さが主役ではあるが、互いに狭量な異文化圏同士の衝突が目立つようになってきた。学校と親との懸案や政治上の課題も、単なる法制度のみならず相互の無理解によるものが増える傾向にある。

 私たちは今、知らずに深く深く底の見えない蛸壺の中へ各々が身を沈めようとしている。

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