文芸船

同い年なら

 私にはほぼ毎年末に集まる同窓の悪友たちがおり、気の置けない仲間であるぶん辛辣なやり取りが多い。今年も例年通り集まって「髪が薄くなった分は腹の脂で重量合わせたか」などとひどいことを一通り言い合ってから飲み会が始まった。三十代になり仕事の話が多少は若い頃より複雑になったのは当たり前なのだが、次第に結婚や家庭の話も出てくるようになったのは時折、不思議な感じがした。私自身が独身のせいもあるだろうが、とくに子供ができたといった話には何か妙な居心地の悪さがある。

 実を言えば、昔からどうも冠婚葬祭や出産などの話が苦手だ。おめでとうだとか悲しいねといった当然の言葉がなかなか出てこないのだ。自分で言うのも何だが会話の反応は比較的早い方のはずなのに、パソコンで重いアプリケーションを起動した際のように頭の回転がしばらく単純に止まってしまう。必要最低限のやり取りをした後も反応がどうも鈍重になってしまう。この辺りは中学頃には自分で気づいた傾向だ。なぜなのかしばらくわからなかったのだが、どうも私は儀礼や常識でほぼ決められた会話がかなり苦手なようだ。要は単に普段が身勝手なだけなのかもしれないが、常識で口にすべき範囲が決まっていると、その範囲に入っているのか少しの間、考え込んでしまう傾向があるようなのだ。そんなわけで逆に、ある意味ではひどい言い方で気軽に言い合える仲間が貴重だと思う。社会人となると学生時代よりも色々と複雑だし、何より私の卒業校はかなり大らかな傾向の強い大学だったせいかなおさらだ。

 ところで話題は変わるが、平成二十一年頃から婚活が流行った。要は就職活動をもじった結婚活動というわけで、お見合いパーティーだとか出会いの何やらとか、まあそういった類の活動だ。もちろん最初は結婚産業関係が仕掛けたものなのだろうが、それにしてもこの種の活動も私にはかなり合わないだろうと思う。過去に合コンに巻き込まれたこともあるが、やはりこの手の場というのは独特の約束事の空気が重くて不快になってしまう。何を訊いて、何を答えてというプロセスが大体決まっていて、その癖に面接試験のようにある程度割り切って考えることも気が引ける。人間同士の精神的な部分が重要であるにも関わらず、その手前での約束事を意識した時点で脳の回転がまた鈍重になってしまう。とくに相手と歳の差があると上下関係も含めてどんな風に会話をしていくべきなのか迷ってしまう。小説を書くせいか、会話の最中も流れで話すよりは起承転結の筋書きが頭の中にあるため、枠をはめられると余計に息苦しくなってしまう。その辺は小説を書いているとはいえ理系で進んできており、学生寮でも修士論文でもデータ実証よりは論理の積み上げでかなり切り抜けてきたという私の経歴も関わっているかもしれない。

 そんな性なので、私にとって同い年や同窓というのは本当にうれしい関係だ。それこそ多少の脱線した流れを何とか許容してもらえる。また強く言われてしまうという点もむしろ逆に安心できる。私自身、強引に進む傾向が強いので、たとえ乱暴にでも思いきりブレーキをかけてくれる人は逆にうれしいものだ。とくに、異性だと競争心が少しは緩和されるので同窓の異性にはそういう意味で助けられたことが何度かある。こんな傾向を考えれば、私にとっての恋愛には会話の楽しさよりもむしろ、ある程度軽い喧嘩が出来る歳の近さと強い意志、それに頭の回転が大切なのかもしれない。

 なぜか私の仲間は暴走癖のある奴が多いのだが、それを抑える側に回る際もまた気心の知れていると楽しいものだ。私の先輩が「背中を預けられる戦友は危険を感じるぐらいが良い。恋愛もそういうものだ」と言っていたが、それに似ているのかもしれない。だがこんな発想をしている時点でやはり私は型外れなのだろう。だが多少は批判を受けたとしても、それが私にとって譲れない同い年への想いなのだ。

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