文芸船

文学嫌い

 正直、僕は文芸というものが嫌いなのかもしれない。

 これまで僕は趣味で小説や文芸関係のものを書いてきた。学生時代は雑誌サークルに所属していたし、小さな人形劇団に脚本を提供したこともある。今も同人系に年数本の投稿をしているので、比較的文芸や文学には近い場所をうろついている人間だと思う。でも、いやだからこそ僕は文学という奴が嫌いじゃないのか、という気が起きてきたのかもしれない。

 小説を書くというと、必ず人間を描くことが最も重視される。少しでも文学をかじったことのある人なら納得すると思うし、そうではない人でも、国語の授業を思い出してもらえば少しはわかってもらえるかな、という気がする。だが最近、僕はこの「人間を描く」という思想に対して非常に不快感を抱くことが多くなった。そうは言っても僕は人間が嫌いなわけではない。飲みに行けば会話を楽しむし、独りでひきもっているのは寂しい。もし長期にわたって隔絶されたら、狂うほど寂しがるような気がする。でも、だからこそ人間を描くという思考が僕の気持ちを痛めつけるときがある。

 小学校の頃から物語や小説は好きで、中学や高校時代には、国語の教科書が来た日から数日のうちに小説と評論だけは読み終えるほどだった。その一方で、部活は理科部や化学部に所属しており創作活動とは縁を持っていなかった。その代わり、これら理科部や化学部では、年一回のコンクールや高文連大会での発表のためレポートを書いていた。その後大学も理系に進学し、当然理系のレポートや卒業論文、学会発表原稿、修士論文などを書いた。こういった流れのせいだろうか、私は人間以外の「観察された現象を書く」という営為にも非常に魅かれる部分があるのだ。

 私が所属していた実験化学系の論文では、まず目的があり、次いで実験方法とその結果、そして考察が来るという構成が一般的だ。ただし、実験はあくまで単純化したモデルであるという点は重要だ。製造工程や肉体内の代謝そのものではない。純粋な物質同士、または無関係と思われる物質を抽出等で除去した単純化した系で様々な測定を行う。これは、実験の上で考えられる様々な影響を最小限に抑えることで、実験結果の分析を容易にするためだ。

 社会や人間関係を大きく眺める際、一般に文学は細かく人物の心の動きを描写する。作品によっては本当に詳細に、食事の際の気分も描いていく。だが、私は時折それらに強い拒否感を抱いてしまうのだ。個々の心はわかった。哀しみも喜びもある。だが、それが起きる本質はどこにあるのだろうか。もちろん周辺の人物や環境があるだろう。しかしそれも一つの例でしかない。膨大にある一例でしかない。さらに一般化した姿や構造が見出せない。いや、見出そうとしていない。

 「私は」ではなく、人間とは、社会とは。そこにある構造や相互作用を検証する上で、個々の詳細な人物像はある面、莢雑物でしかない。私小説で家族像や親子関係には紙幅を費やされるが、果たしてそれらが全く一致しない、ただ同時代を生きる人間では共通性は見出されないのだろうか。さらに言おう、科学技術が発達した未来に顕れる現象の萌芽を何によって見出せば良いのだろう。

 そこに私はファンタジーやSFの存在価値があると思う。科学は未来を語れない。科学は事実と可能性に基づく選択肢を示すだけだ。社会への影響や変貌する姿を示すことはできない。科学に未来の印象があるが、それは虚像だ。科学は過去と現在の現象を分析して透徹する理論を見出し、可能性を示すだけなのだ。核戦争の責任が科学にではなく政治にあるのは科学の限界ゆえなのだ。科学はエネルギーを取り出せることを示し、それを殺戮に使うか平和利用するか、それとも使用自体を止めるかは政治や経済が選択する結果でしかない。そこに、政治や経済と異なる直感と理論による未来を見出すものこそ芸術だと思う。中でも、それを高度に具象として描出できるもの、それこそがSFやファンタジーだと思う。そして、科学や経済学では分析できない複雑化した現代を象徴によりその構造を抜き出せるもの、それもSFやファンタジーだと思う。

 これらの思考は理屈に過ぎる。そしてさらに近代以降の小説に対して否定的に過ぎるかもしれない。だからやはり、私は文学嫌いな小説書きなのだ。

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