近況つれづれ
パソコンの内部を整理したところ、色々とソフトウェアの残骸が出てきました。私の場合、ゲームはやらないし仕事にも使わず、閲覧するWebネットも文字中心なので、現在の高機能パソコンには何だか納得がいかない。エディタと検索ソフトを軽く動かしたいのですが、そのためにこれ以上投資する気にもなれないし。最近はパソコン以外にもオーディオ、車なども最近は単機能が好きになってきました。日本は無駄を削ぎ落とす茶道のような文化とおまけを喜ぶ文化が共存する不思議な国ですが、最近の私だと茶道などもやってみたら楽しめるだろうか。
kalafinaという女性グループ歌手の曲を最近聴いています。アニメ「空の境界」で成立した歌手だそうでプロデューサーは梶浦由記、3人の女性コーラスです。派手さは確かにアニソンの感じですが、歌唱力が声楽を専門にやっていた人たちとしか思えない。最近思うのですが、日本の場合はアニソンやマイナー映画、ノンフィクション記録の方が音楽的に冒険や本格的なものが時折妙に出てくる傾向にある気がします。大勢力のはずのJ-POPというジャンル概念自体が音楽性より商業性で定義しているせいで、何かが本質的に歪んでいるような。日本人はあまりに定義論を嫌い過ぎ、定義論を始めようとするとレッテル戦術に走りすぎる。
文学の集まりで堀江敏幸の作品が好きだと話したところ、「未見坂」(堀江敏幸、新潮社)を貰いました。片田舎の平凡な人々の日常をくどくならず退屈させもせず、静かな調子で描いていく短編集でした。登場人物は高齢層が多く、家庭の難しい問題も孕んでいるのですが、少年の視点の作品も幾つかあって爽やかな感覚です。地域の柔らかな細かい人間関係を捉える力量の凄い作品でした。
ただ、こういった柔らかい人間関係の作品は、私は個人的に良い意味で非現実的に感じてしまいます。それはたぶん、私の日常にそういった人間関係が希薄なせいもあるでしょう。そういった希釈された論理的な世界をどう描くか最近よく考えています。そのせいだろうか、昔サークルの先輩に言われた「畳の上で死ぬような奴か」という言葉を最近やけに思い出してしまいます。
「少女七竈と七人の可愛そうな大人」(桜庭一樹、角川書店)を読みました。旭川市を舞台に、奔放な母の下に生まれた美少女の七竈と、同じく家庭に問題を抱えた美少年の雪風を中心に数人の大人たちが描かれています。不器用と片付けられない大人たちの生き方と、どこまでも透明な感覚の2人。物語の筋書きよりも、とにかく文体に込められた言葉の鋭さに驚きました。本の厚さのわりにかなりの濃厚な小説でした。かなり重量級だったから、今週末はライトノベルの中でも軽いものを何か読もうかな。
スーパーに行ったところ、海藻のギンナンソウが安かったので購入。軽く湯通しして醤油をかけて食べるだけで結構美味しい。季節物の天然食材で美味しい。こういう旬の文化は好きですね。ただ、最近のロハスとかいうのは余り好きになれない。どうしても日本の土着から離れる雰囲気があるのと、何より農業や農産物ばかりが強調されるのが気に入らない。もう少し海産物を美味しく食べましょうとか。でもよく考えると、漁業ってスローライフどころか急げ急げなんですよね。そうなるとやはり方向性は別なのでしょうか。
それ以上に最近、私自身が矛盾した嗜好を併せた人間だと感じています。何というか、普通は共存しないはずの属性を同時に持っているというか。お見合いに最も合わない類の人間かも。
最近生活の改築に取り組んでいます。単に怠惰な部分を改めるだけではなく方向性の転換もあるので、敢えて改善ではなく改築。1,000円未満ですが小型テーブルを買って、だらだらパソコンで作業するより単純に音楽を聴いているだけの時間を作るとかいった感じ。仕事は勿論、私的な時間もわりと詰め込みできたのですが、どうも疲れが取れないというか。考えてみれば、文学も実用性から見れば無駄の塊のようなもの。少し無駄を楽しんでみたいと思います。
古本屋で「IN23H」(なかざき冬、講談社)を買いました。ゲームオタクの中学生が機械人の世界に行って戦うという話で、もちろんヒロインも機械人。流れは基本的にありがちな中身でラストも安直なハッピーエンドなのですが、そのぶん読みやすい。気の強いヒロインの反応も最近の萌え系が騒がれる前だからかあざとくなくて好きな作品でした。
最近、定番の冒険をしてハッピーエンド、それも1〜2巻で1つ話完結という気楽に読める漫画や小説が好みになってきています。元々ハリウッド映画系の派手なものはあまり好みではなかったのですが、頑張って幸せにという王道が癒しになるというか。小説が現実的なばかりではやっぱり楽しくない。
先週から今週にかけて所属している文芸同人の作品を一通り読みました。全体的に私のサイトとは違う作風の方が多いのですが、それよりも大きく感じたのは家族像の問題です。私の作品ではあまり家庭、家族の匂いのする作品は極めて少なくなっており、それはおそらく私自身がもう10年以上も独り暮らしをしているせいでしょう。もちろん実家はあるわけですが、長く家庭の無い生活を続けていると、現実的と言われる家族物の方がむしろファンタジーよりも現実性が薄く感じてしまう気がします。
若者をヴァーチャルと語る評論は多くあるのですが、大多数の人々で共有できるものの少ない時代、現実自体が拡散しているように思えます。そもそも、自分自身が依って立つものがどこまで現実なのか、真剣に見つめる作業はなかなか厳しいものだと思います。
約2週間以上もかけて「ヴァンパイアノイズム」(十文字青、一迅社)を読みました。厚さも字詰めも平凡なライトノベルなのですが、どうも長く読み続けるのが苦しい作品で、でも妙に気になる作品だったので途中で投げ出す気にもならず読み通してしまいました。同級生の女の子が吸血鬼になりたいと言い出し、その実験に「僕」が付き合うという現代物で、ライトノベルながら最後までファンタジーにならずに進む青春物。途中で入ってくる幼馴染み他の女子生徒とやり取りに妙なとって付けた感が。ただ、重く進む青春物としては面白い。桜庭一樹の作品が好きな人にはわりとあうかもしれません。
「ライラの冒険」のレンタルDVDを観ました。最後は「私たちの冒険はこれからよ!」だったので残念。映像は華やかなファンタジー物でLoad Of The Lingのような無気味な描写も無く観やすい造りでした。ただ仲間を得る場面がご都合主義的過ぎるので、厳しさのあるナルニア国物語の方が好きですね。
ところでアメリカ映画は最近、ファンタジー物が多くなっています。SFのネタ切れや柳の下の泥鰌といった商業上の理由もあるでしょうが、PCやWebの普及も理由にあるように思えます。IT系はプログラム、つまり言語を媒体にして仮想世界に奇跡を発揮するので、物理的な現実世界から遊離した発想と相性が良いように思います。アキバ系にIT系が多いのも同根かもしれません。日本でも佐藤さとる、荻原規子、安房直子の作品を映画化して欲しいのですが。
Appleで「iBook」という電子ブックを発売するそうです。コンテンツ形式は私のWebサイトでも使っているXHTML1.1を基礎にしたEPUBというオープンな規格で安心感があります。
ただ、寝転がったままで読める怠惰な利便性が再現可能なのか。また、私は複数の本を同時につまみ食いで読んだり前の巻と並べたりするので、電子書籍も一長一短な気がします。カミュのように難解な作品や推理小説は読み返し易さも重要ですし。
携帯電話を水没・破損保証のサービスで新品と交換しました。サービスセンターに電話連絡すると新品が郵送され、代わりに故障機を封筒に入れてポストに投函するという方法で、電話からほんの1日で到着し、金額も5,000円と良いサービスでしたが、IT端末機の交換なのに郵便ポストという明治以来の仕組み頼りというのが不思議な感じがしました。郵便を使うレンタルDVDもあるようですが、物理的な活動が伴う部分は古いシステムが強く残っているようです。漁業や農業が激変しないのも同根かもしれません。
文学の分類は曖昧な幅が広く、とくにわからないものが散文詩です。作家の主張で変わるようですが、筋書きや整合性より抒情性が内容のほとんどを占めていれば詩になるのかな、と。ただし、日本の私小説だと個人の内面が中心なので尚更分類は難しい。学校であまり教えないのも実は試験に使いにくいからではないかなどと思ったりもします。
そんな感じですが、とりあえず新作の散文詩「サイダーの泡」をよろしくお願い致します。
母の誕生日にAmazonで花束を贈りました。花や魚など個体差のある商品を通信販売で買うことには抵抗感があるのですが、現住所が田舎なのでこれしかない感じで。今回は花だったので妥協しましたが、魚関係はかなり細かくわかるので妥協したことはありません。
このことを考えると、現在の通販の広がりは単に営業や技術の問題だけではなく、直接見て吟味出来る人が減っているせいもあるかもしれません。魚なども切り身まで加工してしまうと消費者はどこを吟味するのか難しい。私自身も仕事や大学で関わっていたから普通よりかなり魚を知っているだけで、農産物はあまりわからないし。
テレビのバラエティ番組では真面目な人を揶揄するような内容が散見します。それ自体の批判は結構目にするので触れませんが、そもそも真面目な人というとどんな人を思い浮かべるでしょうか。おそらく柔和で努力家の印象が強いように思います。この辺りは学校や企業で求める「真面目な人」像が原因なのでしょう。たとえ努力家でも、理想や規範を重視する独立不羈の精神は周囲と衝突してしまうので、日本的な組織では望まれない傾向にあります。
ほどほどに努力し、ほどほどに家庭などを大切にする平和な生活の安定を求める。社会が安定するにはそういった傾向が大切だと思うのですが、どうも私はその感性が低いような気がします。何でこんなことを書くかといえば、最近周辺で結婚だとか家庭的な話が増えてきて色々考えているせいなのですけれど。
最近ブログやTwitterが主体の人が増えているようです。私は新しい技術自体よりその考え方が合わないような気がします。とにかく文字情報にする際は起承転結なり序破急なり、まとまった形式にしないと落ち着かない。ブログやTwitterは鮮度重視の媒体、私のサイトはある程度長期保存型で考えているので、元からやりたいことが違うのかもしれません。
Web時代になってから社会全体での情報量と平均の鮮度は上がったようですが、長期的に閲覧させることを考えた文章が減っているように思います。ところで食品も冷蔵庫に代表されるコールドチェーンと流通速度が上がる一方で、熟成や温度変化に耐える保存性に対する訴求性が下がっています。単純に鮮度という言葉で結び付けるのは乱暴かもしれませんが、何か不思議な一致を感じます。
ここ数日、またサイトの中の見直しを行っています。ファンタジーの方は「愛しのドラゴン」他数作を少し加筆修正しました。そうして色々見ているうちに、ブルドーザーを「ブルトーザー」と誤記していることに気付きました。何とも気恥ずかしい限り。
ところで開設から7年目に入るのですが、スクリプトや画像も含めてサイト全体で2MBにも届いていません。現在に至るまで結構作業はしているのですが、文章主体だと随分と省容量で済むものです。日記の方もあまり細かい日常の内容は書かないようにしているせいもあるでしょうが。
今年の年末年始はかなりゆっくり出来たため、文庫を5冊も読んでしまいました。ほぼ2日に1冊以上のペースです。今回読んだ中で「推定少女」(桜庭一樹、角川書店)はこの作者の特徴である大人の一歩手前の苦悩、大人社会への反発などが生々しいながらも、荒唐無稽に近い非現実のおかげで逆に素直に読めてくる作品でかなり強い印象を受けました。非常に好き嫌いの分かれる作家だと思います。
今回、他にも2冊ほど面白かった本は読書散策路に追記しました。
このところ「はじめてのあく」「神のみぞ知るセカイ」「かのこん」「ハヤテのごとく! 」とやけに手当たり次第に漫画を読んでいました。とくに何か狙って読んでいたわけではないのですが、社会に馴染めない主要人物が出てきて次第に馴染んでいくという要素が真剣な場面ではいずれの作品も結構大きい。偶然私の選んだものがそうなっているのか、そういう傾向のものが売れているのか。いずれにしろ、コメディ系の作品に同様の背景が見られる傾向は興味深い感じがします。
最近ANCIENT CLANという量販店で偶然見つけたスコッチウイスキーを飲んでいます。ブレンデッドで1本980円という値段に不安を抱きつつ買ったのですが、案外としっかりスコッチでストレートで飲める。水割りで飲んでみると香りもきつくなく若干甘みがあって飲み易い。ラベルも高い洋酒のラベルっぽいので良い気分になれます。必死に第3のビールなどと称して無理なビール味にこだわるより、安めのウイスキーやラムの方が意外に旨い上にアルコール度数も高いぶん結局は経済的だと思うのですが、人の好みはなかなか難しいようです。
先日、久しぶりに文学同人の講座に出席しました。肉声で色々と批判を聞け、また語れることはやはりためになります。今回は私の作品の弱点を明確に指摘されたので、次に提出予定の作品を慌てて書き直している最中です。
ところで、文芸船には随筆もあるのですが、開設から5年を経ても単純に生活を見つめる文章はほとんど書いていません。これまでは感性が合わないと思っていたのですが、私自身が日常で物事を分析的に見ていることが影響しているかもしれません。分析的視点も一つの感性だと考えた場合、論理性を持たせた文章自体も素直な日常を吐露する文章とは言えないのでしょうか。
最近しばしば婚活の記事を見かけます。就職活動を就活と省略するため、それに倣って結婚活動を略したという体裁ですが、実は結婚活動も存在しなかった言葉。要は結婚に向けたお見合いなどを指しているのですが、私にはお見合いより違和感のある言葉です。何と言っても就職活動、つまり経済労働由来の単語を、結婚という文化に当てはめる感性がどうも好きになれない。何でも経済に結び付ける感性は一休みする頃合いではないでしょうか。
9月のシルバーウィークを利用して伊勢神宮に行きました。神宮のある伊勢市は意外にも10万人以下の小さな街で、おまけに真面目な参拝客が中心のためか夜に食事する場所が非常に少なく驚きました。それでも夜に食べた名産の伊勢うどんは案外美味しいものでした。何でも、古く伊勢参りの人に素早く食べさせることを目的とした簡易料理だったという説があるそうで、うどんにたまり醤油をかけただけの素朴な内容なのですが、非常に柔らかいうどんなので、嚥下障害向けの食事や胃腸が弱った際に良さそうな感じでした。
神宮は広大な古い森や神域を歩いている神鶏などが印象的でした。巨大な茅葺き屋根の神社など、単に歴史遺産を保存する形ではいずれ喪われるものが、建て替え続けることで逆に続いているという事実は、文化財や情報の超長期保存の上で貴重な示唆だと思います。
新聞が一気に選挙政治一色になってきました。お祭り騒ぎの面が強い感じがしますが、政策を議論する場面が少ないせいもあるように思います。何より日本全体として論理的な議論の訓練があまりに足りない。利点と欠点をお互い比較検討する感覚が無いため人情噺になってしまう。他に高齢者がよく使う「難しいことはわからない」という言葉が私は大嫌いで、わからないなら知る努力をして欲しい。それで任せるなら後で来るしっぺ返しにも耐える覚悟を持って欲しい。
曖昧な人情や難しいからという先送りも完全には否定しませんが、それも一つの決断で責任は伴うということを、そして論理的な思考は将来のリスクから身を守る道具になりえるということを報道や教育で対応して欲しいものです。
今回、珍しく大人向けの作品「餌付けされる日」を書きました。何だかふと思いついて自然と出来上がった感じの不思議な作品。転勤で色々と感覚の変化があるような感じがします。私生活は結構変わり、お酒はほとんど飲まなくなった一方、その分の余裕を旅行に向けています。寺山修司記念館も行ったし青森県立美術館も行ったし、近々宮澤賢治の出身地である花巻市を訪ねる予定。
そんなわけで温泉の感想を試しにまとめ始めました。文芸船の正式メニューには載せずにおきますが、とりあえず「温泉入浴メモ」ということで。
札幌駅の土産店を覗いたところ、多くの生キャラメルが販売されていました。一般的にキャラメルは生クリーム、水飴、砂糖、バター等を加熱して溶かして混合し再び固めたもので、生キャラメルは通常のキャラメル原料のうち生クリームの量の多さが特徴の食品です。現在のところ単なる商品名に過ぎずJAS規格等は定められていないため、いまいち定義のはっきりしない部分のある商品です。
定義が曖昧なぶん、多数のメーカーから出されているとなれば中身を注意してみないと残念なことになることもあるかもしれません。ただ逆に、法令の縛りがないぶん、これからもまだ冒険的な商品も期待できます。開発や芸術は規制がなければ暴走したりずるい商品も生まれてきますが、規制してしまえば冒険が出来なくなってしまう。安定と冒険の天秤を社会がどう動かすべきか、難しいものです。
左足を捻挫しました。かなり重傷の捻挫なのでがっちり固定されてしまい、ろくに歩けない状態。おかげで黄金週間は灰色週間になってしまいました。この土日もほぼ家にこもって食事はカップラーメンという有様です。
そんなわけで長らく積ん読にしていた「神様のパズル」(機本伸司、角川春樹事務所)を読みました。これは、劣等生の男子大学生が飛び級で入ったはずなのに不登校になっている天才少女と一緒に「宇宙はつくれるか」というゼミの課題に挑んでいくという話です。大学のゼミ、理論の討論が中心に話が進んでいく作りで、主題の関係で量子物理学や相対性理論が少し出てくるので好き嫌いは分かれる作品です。また、この天才少女の穂端沙羅華も当初かなりぶっきらぼうな変人です。ただ後半になると、物語が一気に青春物の流れに変わり楽しい。穂端も立派にヒロインになります。討論の場面は理系大学卒の人なら懐かしい気分になれるかもしれません。映画化もされており、穂端は谷村美月が演じたそうです。なるほどと思えるキャスティングなので一度観てみたい。
短編集「ひとさきの花」(藤野もやむ、マッグガーデン)を入手しました。過去に出版された短編集のときと同じく源大姫と木曾義高の悲恋作品が表題作です。2007年出版なので、過去の短編よりも絵柄や暗喩、伏線などは練られて完成度は高くなっています。また、前作は大姫側の視点が大部分でしたが、本作は義高側の複雑な内面も描かれています。絵柄については史実に近づけて大姫がかなり幼くなっているので、その辺は好みの分かれるところかもしれません。
藤野もやむの作品はいずれも極端に図抜けた絵や筋立てがあるわけではなく、少年ジャンプ系の強烈な熱気なども少なく地味なつくりなのですが、読み終わったときに余韻が静かに残る感じが好きです。同じく地味な青年向けのリアリズム系の作品だと、斜に構えて「現実はこうだろ?」とある意味開き直ってしまったり、やたらと静かな生活になってしまうものが多いのですが、純心な真っ直ぐさを大切にした作品は私にとって理想的です。あくまで理想で、私の作風はそっちに行かないけれど。
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