文芸船

近況つれづれ

 日経BPのRSSを見ていたところ、ラーメン構造という奇妙な言葉を発見しました。マンション建築などにおける剛性の骨組みのことRahmenというドイツ語だそうです。偶然の一致にしては妙な面白さ。

 ところで好きな小説・漫画の紹介を改変しました。新たに漫画を加え、本の題名各々をAmazon.co.jpの本の紹介にリンクしました。ちょっとした仕組みでアフィリエイトと関わらずにISBNコードから検索リンクへ繋げられることに気づいたおかげ。本の写真などを他人の褌でいけるのは便利。(Amazonへのリンクは削除しました。)

 以前に作成したXBELによる個人用のブックマークを公開してみました。覚書の公開に近い位置づけなのでサイト作成のリンクのようになってしまいました。これを最初に見たら絶対に文芸サイトの参考とは見えない気がする。(利便性を鑑み、XHTMLでの公開に切り替えました。)

 連日、新聞やネットの上は選挙関係のニュースが満載になっています。でも、私が今回の選挙で気になったのは投票日の9月11日。敢えて書き直せばアメリカ同時テロと同じ9.11です。なぜこの日に、と聞けば法的根拠はあるとは思うのですが、それでもこの日にぶつかってしまったことに妙な不気味さを感じます。当然、当日は万歳やお祝いが行われ、それがテレビや新聞を塗り潰すでしょうが、その裏でアメリカでは今年もテロとの戦いの演説や行事が行われるでしょう。そして、おそらく結構な数の人が気づいているであろうこの偶然がほとんど語られないことに、私は一筋の居心地の悪さを思うのです。

 先日公開した「薄い雨音」、SMILを使って効果音を付けてみました。効果音自体はKanaWaveという、擬音語から擬音を生成するという一風変わったソフトで作成しました。平仮名を打ち込むと勝手に音を作ってくれる、ある意味凄いソフトなんですが雰囲気がおとぼけで面白いおもちゃの雰囲気。ちなみに表題も画像化してみました。このサイトのコンテンツにしては重いデータになったようです。

 新作の詩「薄い雨音」を紙芝居風に表示するようにRealText形式で作成しました。詩の目次には通常版も置いておきます。

 ところでこの形式、HTMLと同様にエディタだけで作れるのは便利。ちょっと癖のある点はあまり好きな規格ではありませんが。何となくHTML3.2っぽい規格です。

 サイトにメールアドレスを貼っているせいか迷惑メールがどっさり来ます。月曜日から3日間で25通。私のメールボックスはごきぶりホイホイかと。それでもここ数年、携帯電話へのワン切りがほとんどなくなったのは良い感じ。こんなに迷惑電話が減ったのは電話会社の努力なのか、それともワン切りに引っ掛からなくなって他へなのか。ワン切りが減ってから振り込め詐欺が増えたような。

 今日は終戦記念日で今年は60周年です。つまり労働者の大部分が戦後生まれになるわけです。「戦争を知らない子供たち」という歌が1971年に流行ったそうですが、今後は戦争を知らない老人たちもどっと増える時代なわけで。

 ところで当然の話ですが、戦争体験者は急激に減っています。こういった体験話は録音や録画による保存を行うべきで、戦後生まれが語りを継承するような方向にならないで欲しいと思います。というのは、語りという手法は語る者によって物語化されやすく、つまり変形しやすいからです。さらに悲哀の伝承は難しい一方で、憎悪の扇動は容易であるという人間の特性があるからです。

 戦後60年の間、最も先延ばしにしてきたのは歴史を継承する準備なのかもしれません。戦後100周年の日、社会はかつての時代を正確に語れるのでしょうか。

 サイトを巡っていてたまに出会う旧仮名遣い(正字正假名遣ひ)。ふと思って検索した結果、結構な数のサイトがあるようで。「完全版歴史的假名遣ひ教室」はどこかで使えるかも。気になったのは、国語解説関係が多いのは当然として何だか妙に日記が多いような。文芸サイトがもっと多くても良さそうなものですが。

 ところでブックマークを記述するためのXBELというXML規格を発見しました。かなり簡単な規格で、私のブラウザのブックマークは簡単に変換できました。規格が単純なぶんXSLTも適用が容易です。でもリンク集を書くにはバナーのURIをどう記述すべきか困ったのでサイトへの活用は断念。

 ここ数日、北海道らしからぬ暑さが続いています。冷えたお茶を買ってもすぐに熱くなってしまうこの暑さには辟易。そんなわけでふと「かき氷」を検索したところ、毎年7月25日は夏氷の日だそうで。でもこの日を制定した日本かき氷協会なる団体、Googleで検索しても制定の話しかない上に協会のサイトも見つからない。制定しただけで溶けちゃったのか。

 世の中色々なサイトがあります。生卵かけご飯にめんつゆを使う会、よく考えたというかサイトの製作をよくも実行に移したというべきか。とか批判じみたことを言いつつ、たまには美味いかもな、とか思ってしまった私はこのサイト管理人に何かで負けたような気分。

 Semantic Webとは、Web上の情報に各々メタデータを付加することで機械に意味を理解させ、情報の効率的な収集や統合を可能にするという思想です。一方、検索サイトのGoogleはリンクされている数や利用の多いサイトを重要であると判断して検索結果の表示を行っています。

 両者の思想を比較すると、Semantic Webは静的な評価や分類を行えるのに対して、Googleは非常に市場主義的な評価を行うように思えます。出版物の多くは出版社の企業活動という市場主義のフィルターを通した情報であることを考えると、Google的なものはかなり長く存在し続けるように思えます。

 少しサイトの裏側を作り直しました。トップの目次をRSS1.0形式で書き直し、トップページと更新情報を2つのRSSからXSLTによりそれぞれ生成するようにしました。でもサイトを見る分にはほぼ同じなので、とりあえず一つの実験という話。メニュー形式の共通化を考えるとブログやXOOPSにも惹かれるのですが、日付による管理や規模の大きさを考えると、結局自分で工夫する方になってしまいます。

 数年ぶりにプールに行ってきました。とりあえず25mほど泳ごうかと泳ぎ始めて、沈む沈む沈む! なんと泳ぎ方を忘れかけていたようで。そんなわけでだらだら足だけで背泳ぎしていました。周囲から見たら怠け者っぽく見えたのでは、などと。

 ところで今日、健康関係でクラスター水なる宣伝を久々に発見しました。水分子のクラスターという概念は、分子運動のミクロな研究の中で出てきた仮説のモデルで非常に微細な分子運動の世界なのですが。私としてはまだ残っていたのかこの話、という呆れとともに、健康関係はしぶといと感じた瞬間でした。

 自動翻訳サイトが見られるようになってきたので、試しに@nifty 翻訳でこのサイトを翻訳してみました。眺めてみるとやはり評論・随筆は比較的まともな訳をする様子。逆に小説の台詞は短くなるほど絶望的な訳になるようです。親しい間柄の台詞の場合、ほとんどが主語を省略してしまうことを考えると当然の結果かもしれません。ということは、落語や恋愛小説は最も機械翻訳が難しくて、難しい技術論文の方が容易なのかも。もしロボットに感情を持たせたら、物事に対する感覚は案外、正反対になるのかもしれません。

 昨日は神田日勝記念美術館に行ってきました。神田日勝鹿追町(北海道十勝地方)に在住していた農民画家で、馬の絵が有名な画家です。展示枚数はかなり少ないのですが、有名な「馬(絶筆、未完成)」などが展示されており、見応えのある記念館でした。作品は当然のことながら、記念館のシンボルマーク(「馬(絶筆)」のシルエット)も誰が作ったのかわからないけれど上手い。

 神田日勝は32歳で没したそうで、私が同じ歳になったら何をしているんだろう。そんなことも頭を掠めてしまいました。

 アスベスト(asbestos)による健康被害が問題になっています。過去にかなりの量を建材として用いていたそうで、古いビルには多くのアスベストがあるようです。今回のアスベストの他にもPCBやフロンなど科学技術にはこういった問題が常にあるのですが、いったん実用化されて経済社会に埋め込まれてしまうと路線変更がなかなかできない。だからと言って危険を抑止出来なかった科学側を責めたり単なる科学不信になったりするものも考え物です。凝り固まったイデオロギーではなく、冷静な判断と熱い意思だけがこのような問題を解決する、21世紀はそんな時代を歩むように思います。

 文化庁が国語に関する世論調査を発表していました。新聞ではいつも通り若者言葉の乱れが採り上げられていたのですが、面白いと思ったのは、上の世代は手紙の拝啓、敬具等を使う伝統的な書き方や敬語についてかなり肯定的であること。でも拝啓と敬具(かしこ)、前略と草々以外の拝復や急啓、まして敬語の侍史、玉案下など使える人はどれほどいるものやら。私もこの辺は全く自信がありません。何より、手紙の時候の挨拶はきちんと独自の文章で書くことの方がかなり重要なように思います。手紙例文集を引き写したとしか思えない時候の挨拶など紙資源の無駄、と思うのですがどんなものでしょうか。

 偶然に岩盤浴の店を見つけたので初体験してきました。岩盤浴とは、加熱した天然鉱石板上に寝そべることにより体を暖めるというものです。岩盤浴は通常の入浴やサウナと異なり、吸汗性の浴衣類を着て入浴(寝そべる)という方法がちょっと不思議。あと、岩石により効果が違うという話には疑問も感じられますが、とにかく気持ち良いので構わないかな、と。ところでこの岩盤浴、調べてみると女性専用の店が意外に多い。美容効果を謳ったせいか、それとも中年男性軍団がサウナで唸りながら汗を流す方を好むせいか。ちょっと奇妙な現象です。

 相変わらずペットボトルのお茶をほぼ毎日買って飲んでいるのですが、時折きちんとしたお茶を飲みたいと思うことがあります。かと言ってわざわざ茶葉を買うならペットボトルで買えないハーブティーに興味が行ってしまう。紅茶類だと喫茶店もあるのですが、日本茶にはそういった店も無い。日本茶は身近過ぎて遠い存在なのかもしれません。

 「ダブリンの鉄鎖」(初出:函館海峡文学会)を公開しました。私としては珍しく同盟リンクなんぞ貼ったりしております。本が出て間もないのでネット上で別に公開するのはどうかとも思うのですが、時期を逃すのはもっと阿呆かと。ちょっときつめの作品ですがよろしくお願いします。(同盟は脱退しました。)

 ここ数週間、ほとんど毎日のように個人情報の漏洩が新聞に掲載されています。この漏洩は最近になって増えたのか、それとも漏洩したことを把握できるようになったのか。とにかくコンピュータ化が進んだせいで一度に流出する量は格段に増えたのは確かだと思います。メモリスティックを紛失した、といった何気ない理由が多いところを見ると、たとえ紛失したり漏洩しても読めないような暗号化などの方法が重要になるかもしれません。そのうち、暗号化ソフトトップ10! とかも出てくるんでしょうか。それはそれで何となく不信の社会だな、という感じもしますが。

 個人用の双方向型情報媒体はWebサイト、メール、FAX、電話、手紙が挙げられると思いますが、この中で唯一視覚を介さないものが電話です。年輩の方に言わせれば電話は味気ないようですが、視覚を介する媒体、中でもメールや手紙のような文字情報を中心とする媒体はどこか編集された感覚があって時折不安を感じます。文字媒体は本当に感情を伝えきることが可能なのか、それは考えると深い命題だと思います。であれば、文字で書いているこの文章は何なのか、という話もありますが。

 ここ数日、夏の陽気が続いています。夏と言えば怪談がありますが、テレビで季節物で多い心霊物はどうも怪談とは違う気がします。心霊スポットに行って憑かれる、という話は霊の八つ当たりみたいなもので、きちんと縁のある人に対する物が少ないのは、祟られる側が後ろ暗くて語らないせいでしょうか。人権問題だのプライバシーのトラブルを避けるためだとしたら、ずいぶん興冷めな時代です。

 このところ、コカコーラの七色亜茶をよく飲んでいます。軽い甘味と香りがあってなかなか旨い。この商品独特の味なので、定価でもあまり抵抗感がなく買える気がします。でも原材料を見ると普通に見かけるような茶葉がほとんどなのでちょっと意外でした。ブレンドのバランスなのでしょうが、開発ってどうやるのでしょう。果てしなく組み合わせ続けるとしたら大変そう。

 詩集でお題による詩作を始めたのですが、著作表示の書き方に少し動揺。結局は普通に書いた上でRDF形式でのメタデータも用意しました。でもRSSでもFOAFでもないRDFを読む人いるんだろうか。ま、自己研鑽と誰か参考にする方がいれば、ということで。(head要素での記述に変更しました。)

 最近障がい者という表記を見かけます。差別を抑制するために表記を平仮名にしているとか。戦前は障碍者と表記していたのですが、妨げるという意味の強いという字が当用漢字から外されたため意味の似た字を充てたそうです。でも平仮名表記にすると不自然な言葉に見える上に語源を辿ると元の字に戻ってしまうので、障害者という一つの言葉としての認識よりも個々の文字に対する意識が強くなっては逆効果な気がします。まあ気楽な西洋かぶれがChallengedなどの英語を持ってくるのでしょうが、そうすると福祉に関わっている人以外の認識度が下がって困ることになるように思えます。言葉は生き物であり、制度的に統制することはむしろ有害だと思うのですがどうなのでしょう。

 話題は変わりますが、Googleで当サイトの題名を検索したらひっかかるようになりました。このサイトはちょっとスクリプトを使っている(MIMEタイプの振り分け等)のですが、先日バグがあることに気づいて修正した甲斐がありました。単なる自己満足に近いですが。そういえば今月は近況つれづれを結構書いてます。何でだろう。

 人間関係の希薄さを訴える人を多く見かけます。実際、社会問題の背後にコミュニケーションの不足が語られています。しかし一般にコミュニケーションに用いる道具は携帯電話を初めとして非常に増えているように思えます。そこで、ふと思いついた妄想の数式が以下。

C < V/nt
C:コミュニケーション1回当たりの最高濃度
V:コミュニケーション総量(定数)
n:コミュニケーションを行うのべ人数
t:コミュニケーションに要する時間の合計

 コミュニケーションの可能な総量だけは決まっているとすれば、回数が増えるほど希釈されていく。マス・コミュニケーションとツールの発達は回数や時間を徒に浪費し、1回のコミュニケーションを希薄化して実体を喪失させてしまう。裏づけのない直感の式です。そして、妄想であって欲しいと思うのです。

 環境問題を眺めていると、自然環境とはそもそも何だろう、という疑問が湧くことがあります。自然を守ろうと語るとき、破壊する側である人間は何者なのだろう、と。自然から発生したはずの人間が行う行為は自然ではないのだろうか、という疑問です。自然界全体と人間を対等に置く思想自体が実は思い上がりのような気がするのです。湖を眺めていてそんなことを思いました。

 私はアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)の絵が好きです。キャンベルのスープ缶が有名ですが、考えてみるとこのスープ、私は食べたことがありません。そのうち買ってみようかなー、とか思いつつも探すのは面倒くさい。でも食べたら失望してしまいそうな不安もあります。挑戦しようかどうか、悩みどころです。

 テレビ番組の中で時折「回答はCMのあとで」というやり方があります。これはCMの間にチャンネルを変えさせない意図ですが、もう一歩進めて「ヒントはCMの中に」とやれば広告効果はかなり強くなるのではないかと。そのぶん広告と番組の境界がかなり曖昧になりますが。ブログで行われているアフィリエイトの中には前述の手法に近いものもあるように思います。広告が創作させるという状況を断じようと思えば簡単ですが、冷静に突き放して見るとなかなか滑稽な光景かもしれません。

 ドライブがてら、芝桜を見に滝上町へ行って来ました。丘が一面芝桜に覆われ、観光客が来るだけあるな、と感心。ついでにハーブの施設に行ったところ、自分でブレンドしてその場で飲めるハーブティーが1杯250円であり、結構観光した気分でした。たしかに町のコンセプトを童話村と言うだけあると納得です。少し少女趣味過ぎる気もしないわけではありませんが。

 普段Headline-DeskbarというRSSリーダーを使っているのですが、流れる見出しを見ているだけでも結構情報がわかったような気になります。そのせいか、新聞を見るときも見出しだけで流してしまうことが少し増え気味です。あまり良い傾向ではないなあ、と思いつつも中の記事も欲しい情報がないような。RSSで流せる以上の分析がなければ、これから紙媒体は価値が低落する気がします。しかしそれは主観的になりやすい気もして何となく危なっかしい。中庸は難しいものです。

 近所のセブンイレブンにATMが設置されました。コンビニエンスストアだとお金を下ろすのに銀行があるかどうか心配いらずなので非常に便利です。まあ、便利すぎて空になっては元も子もありませんが。

 ところでATMをGoogleで調べてみたところAdobe Type Manager, Asynchronous Transfer Modeといった言葉が出てくるのにAutomated Teller Machine(自動預払機)は出てきませんでした。最も身近な言葉が出てこないって、うーむ。

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